東京高等裁判所 平成10年(行ケ)8号 判決 1999年3月24日
アメリカ合衆国 メリーランド州 20877
ゲイサースバーグ インダストリアル ドライブ 16020
原告
イゲン インターナショナル インコーポレイテッド
代表者代表取締役
リチャード マッシー
訴訟代理人弁理士
武石靖彦
同
村田紀子
東京都千代区霞が関3丁目4番3号
被告
特許庁長官 伊佐山建志
指定代理人
星野紹英
同
吉村康男
同
後藤千恵子
同
小林和男
主文
原告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
この判決に対する上告のための付加期間を30日と定める。
事実及び理由
第1 当事者の求めた判決
1 原告
特許庁が、平成6年審判第13874号事件について、平成9年7月14日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
2 被告
主文1、2項と同旨
第2 当事者間に争いのない事実
1 特許庁における手続の経緯
イゲン インコーポレイテッドは、1987年9月2日にアメリカ合衆国においてした特許出願に基づく優先権を主張して、昭和63年9月1日、名称を「免疫近接触媒の製造」とする発明(平成5年10月26日付手続補正書による補正によって、名称を「免疫近接触媒の製造方法」と変更、以下「本願発明」という。)につき特許出願をした(特願昭63-219587号)が、平成6年4月20日に拒絶査定を受けたので、同年8月15日、これに対する不服の審判の請求をした。
イゲン インコーポレイテッドは、1996年11月8日、原告に合併され、原告は、本願出願に係る同会社の地位を承継した(以下、同承継前の出願人イゲン インコーポレイテッドを含む趣旨で「原告」ということがある。)。
特許庁は、同審判請求を平成6年審判第13874号事件として審理したうえ、平成9年7月14日に「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は同年9月18日、原告に送達された。
2 本願発明の要旨
別紙記載のとおり
3 審決の理由の要点
審決は、別添審決書写し記載のとおり、本願明細書の発明の詳細な説明の記載が、当業者が容易にその実施ができる程度に本願発明について記載されているものと認めることはできず、本願が特許法36条3項(平成2年法律第30号による改正前のもの、以下同じ。)に規定する要件を満たしていないとした。
第3 原告主張の審決取消事由の要点
1 審決の理由中、本願発明の要旨の認定は認める。
審決は、本願明細書の発明の詳細な説明の記載を誤認し、それが、当業者が容易に本願発明を実施できる程度に記載されていない旨誤って判断した(取消事由)結果、本願が特許法36条3項の要件を満たしていないとの誤った結論に至ったものであるから、違法として取り消されなければならない。
2 取消事由(実施が困難であるとの判断の誤り)
(1) 審決は、本願明細書の発明の詳細な説明の記載につき、免疫応答に関する部分を例として挙げ、「明細書に例示されている第7表のA~Iの個々の反応系に対して、具体的に、それぞれ、どのような担体種を使用して、各ハプテンとその担体種との共有結合をどのようにして形成させるのか、そして、それぞれ、いかなる動物に対して、どの程度の量注射し、どの程度の免疫時間を要して免疫応答をさせるのか、また、所望の抗体を該抗体とともに産生してくる不要な抗体と識別しつつ分離するためにどのような手段をとればいいのか、等については全く明らかにされていないし、これらの事項が当業者にとって自明のことであったものとも、倒底認められない。」(審決書9頁8~19行)と認定するが、それは誤りである。
すなわち、本願明細書の発明の詳細な説明には、「本発明の方法は、・・・ハプテンを選択または合成し、・・・この目的に標準的に使われるキーホール・リンベット・ヘモシアニンまたは類似の蛋白質のような担体種にそのハプテン(群)を共有結合させ、免疫応答を刺激する抗原としてその錯体を適当な動物に注射することから成る。その応答が展開するのに充分な時間の後、動物から採血し、血清を抽出し、(好ましくは共有結合したハプテンを含むカラムで)分配して、標準法に従って担体単独に応答するこれらを含む非特異性の抗体を除去する。この精製された抗体画分をつぎに(上記の変換ハプテンのためのアルゴリズムに従って選択または合成された)類似の変換ハプテンで培養する。使用する変換ハプテンの種類によって、精製された抗体-変換ハプテン錯体は、反応させるか、放置して反応するにまかせるか、または反応が自発性の場合は単に精製する。反応した錯体は、次に弱酸または弱酸基で処理して-抗体の構造を保持し-、緩衝液に対して強力に透析し、(好ましくは共有結合ハプテンを含むカラムで)分配する。」(甲第2号証14頁左上欄下から7行~右上欄15行)との記載がある。ここには、第7表のA~Iに例示されるような本願発明の実施に関して、担体種として「標準的に使用されるキーホール・リンベット・ヘモシアニンまたは類似の蛋白質」を使用すること、共有結合は標準的な方法で実施できること、免疫時間は、動物に抗原として注射し免疫反応を展開するに充分な時間であればよいこと、所望の抗体をともに産生してくる他の抗体と識別しつつ分離するための手段は、「動物から採血し、血清を抽出し、(好ましくは共有結合したハプテンを含むカラムで)分配して、標準法に従って担体単独に応答するものを含む非特異性の抗体を除去する」ことであることが記載されている。使用する動物及び動物に免疫するのに用いる複合体の量については記載がないが、使用する動物は、試験的にはマウス、大量の抗体を得るためにはウサギ、サル、馬等を使用するのが技術常識であって、当業者であれば記載がなくとも適宜目的に応じて選択をすることができるし、複合体の量についても常識的な量を使用すれば足りることは当然である。このように、本願明細書の発明の詳細な説明には、使用する担体種や抗体の分離手段等について具体的に記載されているから、これらの事項が全く明らかにされておらず、当業者にとって自明のことであったものとも認められないとする審決の上記認定は誤りである。
なお、1988年発行の「SCINENCE」VoL.242所収のScott J.Pollackらの論文「Introduction of Nucleophiles and Spectroscopic Probes into Antibody Combining Sites」(甲第8号証添附参考資料1、以下「参考資料1」という。)、1989年発行の「J.Am.Chem.Soc.」111巻所収のScott J.Pollackらの論文「A Semisynthetic Catalytic Antibody」(同号証添附参考資料2、以下「参考資料2」という。)及び1990年発行の「Proc.Natl.Acad.Sci.USA」87巻所収のVictoria A.Robertsらの論文「抗体再モデリング:抗体結合ポケットにおける金属配位位置の設計についての一般的解決(Antibody remodeling: A general solution to the design of a metal-coordination site in antibody binding pocket)」(同号証添附参考資料3、以下「参考資料3」という。)には、本願発明と同様の技術思想に基づく製法により得られた免疫近接触媒が開示されており、これによっても本願発明が具体性を有することが明らかである。
被告は、本願明細書の発明の詳細な説明の前記記載が極めて抽象的、かつ、概括的であって、当業者がこれらの記載により追試可能であるとはいえないと主張する。しかしながら、本願発明は、酵素化学に対する知識と有機化学及び免疫化学とを組み合わせて従来存在しなかった免疫近接触媒の製造を可能としたものであり、所望の免疫近接触媒の製造を可能とするため、反応剤と触媒性基を同定し、特殊な関係にある2種のハプテンを利用して化学反応に活性な抗体-触媒性基錯体を得ることに特徴を有するものであり、その方法で使用する免疫反応や抗体の分別法に特徴があるものではない。免疫反応や抗体の分別などは、上記のとおり、本願出願当時の標準的な方法で実施することができるものである。本願明細書の発明の詳細な説明の第1~第6表(甲第2号証8頁右下欄5行~10頁右上欄)には、本願発明で使用するハプテンや触媒性基に関する具体的な説明がなされており、第7表(同10頁右上欄下から5行~14頁左上欄)には、「二三の選ばれた反応における反応剤、X、触媒性基K、R1およびR2、ハプテン、Y、Q’cat、R’1およびR’1、および変換ハプテンY、Qcat、R’1およびR2の間の関係」としたうえで、A(p-ニトロフェニルブチレート加水分解)から、I(コレステロール・エステル加水分解)まで、9種類にわたり、反応に有用な触媒についての具体的な実施例が示されているのであるから、当業者であれば、これらの発明の詳細な説明の記載に基づき、抗体工学の技術によって、本願発明を実施することは容易である。
また、被告は、本願明細書に、そこに記載されたハプテン及び変換ハプテンの合成方法や、融点等が記載されていないことを問題とするが、本願は、該ハプテンや変換ハプテンに関する物質特許の出願ではないから、その合成方法や融点等を記載する必要はない。本願発明で使用できるハプテン又は変換ハプテンは、第7表に例示されたもののほかにも多数存在するのであり、そのすべてについて合成手段や融点等を記載すれば、明細書の記載が冗長になるだけである。本願明細書の発明の詳細な説明は、ハプテン及び変換ハプテンの化学式について具体的な開示をしており、当業者であれば、その化合物を合成又は購入することは容易である。
なお、本願発明は、免疫化学を有機化学や酵素化学と組み合わせて研究することが未だ始まったばかりであり、今後抗体工学に関する研究がどのように発展するかが未知であって、免疫近接触媒や変換ハプテンというような用語も知られていなかった時期に、本願発明の要旨の<1>~<7>の各工程を含み、そこで使用される反応剤、触媒性基、ハプテン及び変換ハプテン等を特定することにより、従来全く予期されなかった免疫近接触媒の製造を可能として、それを特許出願によっていち早く世に知らしめたものであり、米国特許庁、英国特許庁及びヨーロッパ特許庁は、本願発明と実質的に同一の発明に対し、速やかに特許権を付与している。上記のとおり、明細書に具体的な実施例を記載して、このような全く新規な発明の特許出願をしたときに、追試する当業者が極めて困難な試行錯誤を繰り返さなければならない等として、特許がされないとすれば、「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もって産業の発達に寄与する」(特許法1条)との特許法の目的は達成されないこととなる。
(2) また、審決は、「本願発明の詳細な説明の他の箇所において、本願発明の免疫近接触媒が、本願明細書記載の上記の方法に基づいて、現実的に実施できたことを客観的に明らかにする記載もなされていない。」(審決書9頁末行~10頁4行)とも認定するが、誤りである。
すなわち、本願明細書の発明の詳細な説明には、「本方法の免疫近接触媒は、ポリクローナル的に得られたものも、モノクローナル的に得られたものも、免疫応答におけるそれらの誘導のおかげでよく折れ曲がった安定な蛋白質である。・・・本発明のその蛋白質は、変成によってその標的とする抗原種(反応剤)に対して化学的に反応性のある新しい種類の抗体であり、これで受動的に結合する抗原の代わりに、-酵素のやりかたで-これらの標的の分子中の結合の開裂に触媒作用を与える。二分子反応が位置分子反応(「一分子反応」の誤記である。)に変わることによって、反応速度が極めて大幅に増加する。本発明により製造される免疫近接触媒は、この機能を果たすとともに、反応剤と触媒性基を整列させて反応速度を最高にする。触媒作用を受ける反応の種類は、その抗体に接触できる触媒性基の種類によってだけ制限を受ける。これらの触媒性基には、一般的な酸-塩基、求核、求電子および金属の触媒が含まれる。・・・本発明により製造される触媒を使用できる反応の二つの大きい種類は加水分解反応および酸化-還元反応である。」(甲第2号証6頁右下欄11行~7頁左上欄15行、甲第4号証補正の内容(16)~(18))との記載、「このような免疫近接触媒は、当業者にとって自明のように、工業的に重要な化学反応のための触媒として有用である。例えば、洗剤の活性成分、澱粉またはセルロースの糖への変換における炭水化物の分解、チーズの製造、およびヒトの疾病の治療等である。免疫近接触媒が有用な他の領域は、有機合成および生体高分子の部位特異的な解裂である。医薬または毒素の不活性化もそうである。有機合成では、これらはキラル化合物の合成、類似の多数の結合のうちの一つの選択的な反応、および化合物の混合物の一つへの触媒作用に特に有用である。従来の触媒は、立体特異性、選択性および/または基体特異性に欠ける傾向がある。これらの問題を克服するほか、免疫近接触媒は有為の速度の増大と従来の触媒より温和な反応条件を与える。免疫近接触媒は、また保護基が合成に使用される場合にかなりの用途がある。免疫近接触媒は、どんな他の点でも反応剤を変化させることなしに保護基を除去できる。部位特異的な解裂触媒として、免疫近接触媒は抗癌剤への蛋白質の配列に有用である。例えば、蛋白質の配列を促進するために、免疫近接触媒はN-末端ホルミル基またはアセチル基の加水分解の触媒となるように製造でき、またトリプトファン、メチオニンまたはヒスチジンのような稀アミノ酸のところでの蛋白質の解裂の触媒となるように製造できる。」(甲第2号証14頁右上欄末行~右下欄8行)との記載がある。このように、本願明細書の発明の詳細な説明には、本願発明によって得られる免疫近接触媒が安定なタンパク質であることが確認された旨や、その触媒作用の機構について、また該免疫近接触媒の効果について具体的に記載されており、さらに、上記のとおり、第7表(同10頁右上欄下から5行~14頁左上欄)に、9種類にわたり、反応に有用な触媒について具体的な実施例が示されているのであるから、審決の上記認定が誤りであることが明らかである。
被告は、本願発明のように生物学的手法を用いる場合においては、理論どおりの結果が得られない場合も多々あるから、本願明細書の記載から、そこに記載されたハプテンを使用した場合に目的とする触媒が得られるとすることはできないと主張する。しかしながら、上記のとおり、本願発明は、免疫近接触媒や変換ハプテンというような用語も知られていなかった時期に、一連の工程で、特殊なハプテン及び変換ハプテンを組み合わせて使用することによって、従来全く知られていなかった免疫近接触媒の製造を可能としたものであり、しかも、明細書の発明の詳細な説明の第1~第6表には本願発明で使用するハプテンや触媒性基に関する具体的な説明が、第7表には本願発明の実施例の例示がなされているものである。このような詳細な説明は、未知の技術分野で、実際に発明を実施することなく予測できるようなものではないことが明らかであり、被告の上記主張は、本願発明の内容及び本願出願当時の技術水準を無視するものである。
第4 被告の反論の要点
1 審決の認定・判断は正当であり、原告主張の取消事由は理由がない。
2 取消事由(実施が困難であるとの判断の誤り)について
(1) 原告は、本願明細書の発明の詳細な説明には、使用する担体種や抗体の分離手段等について具体的に記載されており、当業者が、これらの発明の詳細な説明の記載に基づき、抗体工学の技術によって、本願発明を実施することは容易であると主張する。
しかしながら、原告が、具体的に記載されているとして引用する記載(甲第2号証14頁左上欄下から7行~右上欄15行)は、極めて抽象的、かつ、概括的であって、当業者が、これらの記載により追試可能であるとは、到底いえないものである。該記載には、「標準的に使われる・・・または類似の蛋白質のような担体種に・・・共有結合させ」、「適当な動物」、「充分な時間」、「標準法に従って・・・除去する」、「反応させるか、放置して反応するにまかせるか、または反応が自発性の場合は単に精製する」、「弱酸または弱酸基で処理して」のような不明確な記載がなされており、本願発明の方法の実施に際して使用する試薬、動物、材料あるいは操作条件等について、追試を可能とするような具体的記載はない。このような発明の詳細な説明の記載に基づいて、当業者が本願発明に係る免疫近接触媒を調製しようとすれば、各工程ごとに、本願明細書に具体的な開示のない公知あるいは周知技術の選択、さらに場合によっては独自の工夫が必要となり、極めて困難な試行錯誤を繰り返さなければならないことは明白である。
しかも、本願明細書には、そこに記載されたハプテン及び変換ハプテンについて、その合成方法が記載されておらず、また、従来公知の手段を用いて該ハプテン等を合成しようとしても、その合成された化合物が所定のハプテンあるいは変換ハプテンであることを確認し得る同定資料(融点等)も記載されていないのであるから、当業者が、該ハプテン等を合成するには多大な困難が伴うし、他に入手の手段も記載されていないから、本願明細書の記載に基づき、該ハプテン等を得ること自体、当業者が容易になし得るものということはできない。
したがって、これらの事項について「全く明らかにされていないし、これらの事項が当業者にとって自明のことであったものとも、到底認められない。」とした審決の認定に誤りはない。
なお、原告は、参考資料1~3に、本願発明と同様の技術思想に基づく製法により得られた免疫近接触媒が開示されており、これらによっても本願発明が具体性を有することが明らかであるとも主張するが、これらの文献に記載された免疫近接触媒の製造プロセスにおいては、本願発明の変換ハプテンとは著しく異なる化合物を使用して目的とする触媒を得ており、本願発明の概念に含まれるものではなく、これらの文献の記載が、本願発明が具体性を有することの根拠とはなり得ない。
(2) 原告は、「本願発明の免疫近接触媒が、本願明細書記載の上記の方法に基づいて、現実的に実施できたことを客観的に明らかにする記載もなされていない」との審決の認定が誤りであると主張する。
しかしながら、仮に、本願明細書に記載されたハプテンを使用して免疫反応を発現させ、そこで得られた抗体と本願明細書に示された変換ハプテンとから調製される抗体-触媒性基結合体(免疫近接触媒)が現実に触媒活性を有するというのであれば、得られた免疫近接触媒について触媒活性を試験し、触媒活性に関するデータを保有しているはずであって、それがないということはあり得ない。それにもかかわらず、原告からは現在に至るまで、該免疫近接触媒が触媒活性を有することを客観的に示す実験データが提示されていない。このことは、原告が、現実には、本願明細書に記載された方法により触媒活性を有する免疫近接触媒を得てはいなかったことを意味するものである。
本願発明のように生物学的手法を用いる場合においては、理論どおりの結果が得られない場合も多々あることは、本願出願当時においても技術常識である。そうすると、触媒活性を示す具体的なデータがない以上、本願明細書に記載されたハプテンを使用した場合に目的とする触媒が得られるとすることはできない。
第5 当裁判所の判断
1 取消事由(実施が困難であるとの判断の誤り)について
(1) 平成元年10月4日付手続補正書(甲第3号証)、平成5年10月26日付手続補正書(甲第4号証)、平成6年8月15日付手続補正書(甲第5号証)及び平成6年9月14日付手続補正書(甲第6号証)による各補正後の本願明細書(甲第2号証)の発明の詳細な説明には、第7表(甲第2号証10頁右上欄下から5行~14頁左上欄)に、「二三の選ばれた反応における反応剤、X、触媒性基K、R1およびR2、ハプテン、Y、Q’cat、R’1およびR’2、および変換ハプテンY、Qcat、R1およびR2の間の関係」と記載されたうえで、A(p-ニトロフェニルブチレート加水分解)から、I(コレステロール・エステル加水分解)まで、9種類にわたり、それぞれ、免疫近接触媒を関与させて行う化学反応(例えば、Aであれば、P-ニトロフェニルブチレート加水分解反応)に係る化学反応式のほか、反応剤及びそのX、K(反応剤と錯体を形成する触媒性基)、R1、R2、ハプテン及びそのY、Q’cat、R’1、R’2、変換ハプテン及びそのY、Qcat、R1、R2の各化学構造式が示されているが、当該免疫近接触媒を調製する方法に関しては、同表の記載に引き続いて、「本発明の方法は、上述のアルゴリズムによりハプテンを選択または合成し、好ましくは上記に与えられた結合残基を介してこの目的に標準的に使われるキーホール・リンベット・ヘモシアニンまたは類似の蛋白質のような担体種にそのハプテン(群)を共有結合させ、免疫応答を刺激する抗原としてその錯体を適当な動物に注射することから成る。その応答が展開するのに充分な時間の後、動物から採血し、血清を抽出し、(好ましくは共有結合したハプテンを含むカラムで)分配して、標準法に従って担体単独に応答するこれらを含む非特異性の抗体を除去する。この精製された抗体画分をつぎに(上記の変換ハプテンのためのアルゴリズムに従って選択または合成された)類似の変換ハプテンで培養する。使用する変換ハプテンの種類によって、精製された抗体-変換ハプテン錯体は、反応させるか、放置して反応するにまかせるか、または反応が自発性の場合は単に精製する。反応した錯体は、次に弱酸または弱酸基で処理して-抗体の構造を保持し-、緩衝液に対して強力に透析し、(好ましくは共有結合ハプテンを含むカラムで)分配する。この精製された調製物は、Qcat’基を含まないハプテン同族体によっては阻害されるが、同等の大きさと構造をもつ無関係な分子によっては阻害されない触媒活性について試験する。」(同号証14頁左上欄下から7行~右上欄19行、以下、この部分の記載を「本件特定記載」という。)との記載があるほかは、他に特段の記載は存在しない。
(2) ところで、特許法36条3項は、「前項第三号の発明の詳細な説明には、その発明の属する技術の分野における通常の知識を有する者が容易にその実施をすることができる程度に、その発明の目的、構成及び効果を記載しなければならない。」と規定して、発明の詳細な説明の記載は、当業者がその記載に基づいて当該発明を容易に、すなわち過度の負担なく実施(追試)できる程度のものであることを必要とする旨を明らかにしている。
この場合、当業者が当然有するはずの当該技術分野における技術常識に属するようなこと、あるいは技術常識に従えば当然理解し得るようなことについては、適宜記載を簡略にし、あるいはその程度によっては省略することもできない訳ではなく、例えば、いくつもの工程からなる製造方法の発明において、各工程における具体的な実施のための手段が、明細書に記載された条件の下において周知の1手段に一義的に定まること、あるいは複数の周知の手段があるとしても、いずれを選択しても発明の効果の上で特段の相違を生じないことが、技術常識に基づいて当業者に容易に理解されるような場合等においては、当該実施のための手段については、記載を簡略にし、あるいは抽象的な記載をもって足りるとされる場合があり得ようが、逆に、技術常識に従っても、具体的な実施のための手段方法として多くの選択肢があり、しかもいずれを選択するかによって、発明の効果が左右され得るような場合であれば、その場合に選択すべき手段方法が具体的に記載されていなければ、当該発明を実施(追試)しようとする当業者は、各選択肢を一々試みることを余儀なくされることが明らかであるから、そのような発明の詳細な説明の記載は、当業者が過度の負担なく実施(追試)できる程度のものというには足りず、特許法36条3項の要件を満たさないものというべきである。
しかるところ、本願発明の免疫近接触媒の製造方法は、その工程中に触媒抗体製造の手法を含むものである(本願発明の要旨<3>、<4>の免疫応答に係る工程)が、平成2年発行の「化学」45巻12号所収の高橋栄夫外1名の論文「免疫学からみたCatalytic Antibody」(乙第1号証)には、「現実には、後に述べるように、Catalytic Antibody(注、触媒抗体)は多大な労力のわりには確率の低い行為によって得られてくる。この意味で、望みのCatalytic Antibodyを得る方法は、現在までのところでは生体のもつ抗体分子のレパートリーに依存した非常に受動的なものであるといえよう。」(同号証836頁左欄下から8~3行)、「実際にCatalytic Antibodyを得る手順としては、遷移状態アナログをキャリヤーとなるタンパク質〔BSA(ウシ血清アルブミン)、KLH(スカシガイのヘモシアニン)など〕に結合させ、それをマウスに免疫する。免疫成立後に脾臓から抗体産生細胞をとりだしミエローマと融合し、上述のハイブリドーマとする。このような均一な抗体をつくりだすいくつものハイブリドーマからアッセイを行い、目的の酵素活性をもつものをスクリーニングしてくるわけである。これは、かなり手間のかかる方法であるうえに、一般には遷移状態アナログには結合するが、酵素活性は持たないというクローンも多く存在するので、“酵素活性をもつもの”という限定をつけたスクリーニングでは得られるクローンの数は非常に少ない。」(同837頁右欄下から15~2行)との各記載があり、これらの記載によれば、本願出願後である平成2年当時の技術水準においても、現実にハプテンから目的とする触媒抗体を調製することには困難が伴い、これが得られる確率はかなり低いものであることが認められる。
そうであれば、本願発明において、当業者が明細書の発明の詳細な説明の記載に従って、前示第7表のAからIまでの反応系のうちのいずれであるにせよ、これを実施(追試)して免疫近接触媒を現実に得ようとする場合、その工程のうちの前示免疫応答の部分に限ってみても、選択したハプテンを担体種に結合させてハプテン-担体複合体を形成する過程、該ハプテン-担体複合体を動物に導入して免疫反応を刺激させ、目的とする触媒抗体を生成させる過程、該動物から抽出した血清から目的とする触媒抗体を分別する過程にわたって、それぞれの具体的な手段方法が明らかにされていなければ、当業者に過度の負担を与えることになることは明らかである。
しかるに、本願明細書の本件特定記載のうち、ハプテンを選択又は合成してから免疫応答を経て抗体を精製するまでの部分は、ハプテンに共有結合させる担体種として「キーホール・リンベット・ヘモシアニン」が特定例示されているほかは、「適当な動物」、「充分な時間」、「標準法に従って」等の不明確な特定しかされていない極めて抽象的、かつ、概括的な記載に止まっており、この記載によっては、当業者が、目的とする触媒抗体を調製しようとした場合に、仮に最終的に得られるとしても、それを得るまでの間には、各過程ごとに様々な試行錯誤を繰り返さなければならないことが明らかである。ハプテンに関しその化学構造式しか示されていない第7表の記載によって、そのような当業者の負担が軽減されるものと認めることもできない。そうすると、本願明細書の発明の詳細な説明の記載によっては、本願発明の各工程のうちの免疫応答の部分を取り出してみただけでも、当業者が本願発明を実施(追試)するに当たって過度の負担を受けるものといわざるを得ない。
したがって、免疫応答に関する部分を例として挙げ、「明細書に例示されている第7表のA~Iの個々の反応系に対して、具体的に、それぞれ、どのような担体種を使用して、各ハプテンとその担体種との共有結合をどのようにして形成させるのか、そして、それぞれ、いかなる動物に対して、どの程度の量注射し、どの程度の免疫時間を要して免疫応答をさせるのか、また、所望の抗体を該抗体とともに産生してくる不要な抗体と識別しつつ分離するためにどのような手段をとればいいのか、等については全く明らかにされていないし、これらの事項が当業者にとって自明のことであったものとも、到底認められない。」(審決書9頁8~19行)とした審決の認定は、「どのような担体種を使用して」との部分を除き、誤りはなく、また、右部分の瑕疵が審決の結論に影響を及ぼさないことも明らかである。
原告は、本願明細書の本件特定記載が、共有結合は標準的な方法で実施でき、免疫時間は動物に抗原として注射し免疫反応を展開するに充分な時間であり、ともに産生してくる他の抗体との識別分離の手段は標準法で担体単独に応答するものを含む非特異性の抗体を除去することを明らかにしており、技術常識上、使用する動物は、試験的にはマウス、大量の抗体を得るためにはウサギ、サル、馬等であり、複合体の量についても常識的な量を使用すればよく、本願明細書の発明の詳細な説明には、使用する担体種や抗体の分離手段等について具体的に記載されており、当業者であれば、これらの記載に基づき、抗体工学の技術によって、本願発明を実施することは容易であると主張するが、仮に、当業者がこれらの事項について周知の手段方法を採用した場合に、それが抗体工学あるいは免疫学等で標準的あるいは常識的な方法として許容される範囲のものであれば、どのような手段方法であれ、ほとんど試行錯誤することなく、目的とする触媒抗体を得ることができるものとは、前示高橋栄夫外1名の論文(乙第1号証)に照らし、また、後記のとおり、本願明細書には、そこに記載された方法に基づいて本願発明が現実に実施できたことを客観的に明らかにする記載もなされていないと考えられることに鑑みても、到底認め得ないところである。したがって、原告の該主張を採用することはできない。
また、原告は、参考資料1~3に、本願発明と同様の技術思想に基づく製法により得られた免疫近接触媒が開示されており、これによっても本願発明が具体性を有することが認められると主張するが、参考資料1~3の記載(甲第8号証添付参考資料1~3各訳文)によっても、そこに開示された免疫近接触媒が本願発明の要旨に規定された方法によって調製されたことを認めることはできない。のみならず、本願出願の優先権主張の日の後に頒布された刊行物である参考資料1~3に免疫近接触媒が開示されているからといって、翻って、本願明細書の発明の詳細な説明の記載に従って当業者が本願発明を実施(追試)しようとすれば過度の負担を受けることになるとの前示認定が左右されるものということもできないから、原告の該主張を採用することはできない。
原告は、さらに、明細書に具体的な実施例を記載して、本願発明のような全く新規な発明の特許出願をしたときに、追試する当業者が困難な試行錯誤を繰り返さなければならない等として特許がされないとすれば、「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もって産業の発達に寄与する」(特許法1条)との特許法の目的は達成されないこととなる旨主張する。しかしながら、免疫近接触媒の製造方法の発明である本願発明に係る本願明細書において、それぞれ、反応剤及びそのX、K(反応剤と錯体を形成する触媒性基)、R1、R2、ハプテン及びそのY、Q’cat、R’1、R’2、変換ハプテン及びそのY、Qcat、R1、R2の各化学構造式が示されているにすぎない第7表A~Iの記載はもとより、前示のとおり、免疫応答の工程だけ取り上げてみても極めて抽象的、かつ、概括的な記載に止まり、仮に当業者がこれに従って実施(追試)をしようとする場合、各過程ごとに様々な試行錯誤を繰り返さなければならないものと認められる本件特定記載についても、本願発明の具体的な実施例というには程遠いものであるといわざるを得ないから、原告の該主張はその前提を欠くものであって、採用することができない。なお、この点の認定判断が、外国特許庁の取扱いによって左右されるものでないことは明白である。
(3) 本願明細書の発明の詳細な説明に、免疫近接触媒を関与させて行う化学反応に係る化学反応式と、反応剤及びそのX、K(反応剤と錯体を形成する触媒性基)、R1、R2、ハプテン及びそのY、Q’cat、R’1、R’2、変換ハプテン及びそのY、Qcat、R1、R2の各化学構造式のみを示した第7表A~Iの記載のほか、当該免疫近接触媒を調整する方法に関しては、本件特定記載以外に他に特段の記載が存在しないことは前示のとおりである。
のみならず、本願明細書の発明の詳細な説明には、本願発明の方法によって調製される抗体一触媒性基結合体(免疫近接触媒)が現実に触媒活性を有することを示す具体的な数値データの記載も存在しない。
ところで、本願発明の免疫近接触媒の製造方法が、その工程中に触媒抗体製造の手法を含むものであることは、前示のとおりであるところ、平成6年1月25目発行の金光修著「抗体工学入門」(乙第2号証)に、「A.Tramontanoらは、カルボン酸エステルとして、化合物5およびその側鎖誘導体を選び、その反応遷移状態アナローグとして化合物1~4を合成した(図7.1参照).触媒活性を示す抗体が得られたのは、4をハプテン基とした抗原刺激によるものであった.」(同号証168頁下から3行~169頁2行)との記載及び図7.1(同頁上欄)の図示があり、この記載及び図示並びに前示高橋栄夫外1名の論文(乙第1号証)の記載に照らすと、本願出願後の平成2年以降の技術水準の下でも、理論的には触媒活性を有する抗体を得られるとの想定の下で合成したハプテンであっても、現実にはそのハプテンを使用して目的とする触媒活性を有する抗体を調製することができない場合の方がはるかに多いことが認められる。そして、このような生物学的手法を用いる場合、その他生体に関連する発明においては、当初想定した理論のとおりの結果が得られない場合が少なくないことが従前から技術常識とされており、そのために、本願発明のような生物学的手法を用いる製造方法の発明等において、特許法36条3項所定の「その発明の目的、構成及び効果を記載」したとするためには、明細書の発明の詳細な説明に、実験データ等の所期の効果を現実的に奏したことを客観的に裏付けるに足りる記載をすることを要するとするのが、特許庁の審査、審判におけるプラクティスであり、前示の事由に鑑みて、かかる取扱いは合理的であり、相当であるものと認められる。
そうすると、「本願発明の詳細な説明の他の箇所(注、前示本件特定記載以外の箇所という趣旨である。)において、本願発明の免疫近接触媒が、本願明細書記載の上記の方法に基づいて、現実的に実施できたことを客観的に明らかにする記載もなされていない。」(審決書9頁末行~10頁4行)とした審決の認定に誤りはない。
原告は、本願明細書の発明の詳細な説明中の「本方法の免疫近接触媒は、ポリクローナル的に得られたものも、モノクローナル的に得られたものも、免疫応答におけるそれらの誘導のおかげでよく折れ曲がった安定な蛋白質である。・・・本発明のその蛋白質は、変成によってその標的とする抗原種(反応剤)に対して化学的に反応性のある新しい種類の抗体であり、これで受動的に結合する抗原の代わりに、-酵素のやりかたで-これらの標的の分子中の結合の開裂に触媒作用を与える。二分子反応が位置分子反応(「一分子反応」の誤記であると認められる。)に変わることによって、反応速度が極めて大幅に増加する。本発明により製造される免疫近接触媒は、この機能を果たすとともに、反応剤と触媒性基を整列させて反応速度を最高にする。触媒作用を受ける反応の種類は、その抗体に接触できる触媒性基の種類によってだけ制限を受ける。これらの触媒性基には、一般的な酸-塩基、求核、求電子および金属の触媒が含まれる。・・・本発明により製造される触媒を使用できる反応の二つの大きい種類は加水分解反応および酸化-還元反応である。」(甲第2号証6頁右下欄11行~7頁左上欄15行、甲第4号証補正の内容(16)~(18))との記載及び「このような免疫近接触媒は、当業者にとって自明のように、工業的に重要な化学反応のための触媒として有用である。例えば、洗剤の活性成分、澱粉またはセルロースの糖への変換における炭水化物の分解、チーズの製造、およびヒトの疾病の治療等である。免疫近接触媒が有用な他の領域は、有機合成および生体高分子の部位特異的な解裂である。医薬または毒素の不活性化もそうである。有機合成では、これらはキラル化合物の合成、類似の多数の結合のうちの一つの選択的な反応、および化合物の混合物の一つへの触媒作用に特に有用である。従来の触媒は、立体特異性、選択性および/または基体特異性に欠ける傾向がある。これらの問題を克服するほか、免疫近接触媒は有為の速度の増大と従来の触媒より温和な反応条件を与える。免疫近接触媒は、また保護基が合成に使用される場合にかなりの用途がある。免疫近接触媒は、どんな他の点でも反応剤を変化させることなしに保護基を除去できる。部位特異的な解裂触媒として、免疫近接触媒は抗癌剤への蛋白質の配列に有用である。例えば、蛋白質の配列を促進するために、免疫近接触媒はN-末端ホルミル基またはアセチル基の加水分解の触媒となるように製造でき、またトリプトファン、メチオニンまたはヒスチジンのような稀アミノ酸のところでの蛋白質の解裂の触媒となるように製造できる。」(甲第2号証14頁右上欄末行~右下欄8行)との記載を引用して、本願明細書の発明の詳細な説明には、本願発明によって得られる免疫近接触媒が安定なタンパク質であることが確認された旨や、その触媒作用の機構について、また該免疫近接触媒の効果について具体的に記載されており、さらに前示第7表(同10頁右上欄下から5行~14頁左上欄)に、9種類にわたり、反応に有用な触媒について具体的な実施例が示されているのであるから、審決の上記認定が誤りであることが明らかであると主張する。
しかしながら、本願明細書の前示各記載は、そこに記載された、本願発明によって得られる免疫近接触媒が安定なタンパク質であること、その触媒作用の機構、免疫近接触媒の効果等を、それぞれ実験等により現実に確認したのかどうか、あるいはその確認をどのような手段方法によって行ったかについて全く記載がなく(なお、原告は、「安定なタンパク質であることが確認された」旨が記載されているとするが、前示引用のとおり、「確認された」との記載はない。)、そうであれば、これらの点について、理論的な可能性を予測して記載したにすぎないものと解される。また、第7表A~Iの記載が本願発明の具体的な実施例に当たるとすることができないことは前示のとおりである。したがって、原告の引用するこれらの記載が、本願明細書記載の方法に基づいて、本願発明の免疫近接触媒が現実に得られたことを客観的に明らかにする記載とは到底いい得ない。
また、原告は、本願発明は、従来全く知られていなかった免疫近接触媒の製造を可能としたものであり、本願明細書の発明の詳細な説明の第1~第6表には本願発明で使用するハプテンや触媒性基に関する具体的な説明が、第7表には本願発明の実施例の例示がなされているものであって、このような詳細な説明は、未知の技術分野で、実際に発明を実施することなく予測できるようなものではないと主張する。
しかして、本願明細書(甲第2号証)の発明の詳細な説明の第1~第6表(同号証8頁右下欄5行~10頁右上欄)は、それぞれ、反応剤、ハプテンの各領域に有用な置換基、K(触媒性基)、K’、L、L’等の例が、化学構造式をもって示されたものであるが、それによっても、前示第7表の記載と同様、本願発明の方法によって現実に免疫近接触媒を得るための具体的な手段方法を明らかにするものとはいい難く、そうであれば、本願発明の免疫近接触媒が従来全く知られていなかった未知の技術分野におけるものであるとしても、これら第1~第6表、第7表の各記載が、理論的な可能性を予測して記載した以上のものであると解することはできない。したがって、原告の該主張も採用することはできない。
(4) 以上によれば、審決が「本願発明の詳細な説明の記載は、当業者が容易にその実施ができる程度に、本願発明について記載されているものとは認めることができない。」(審決書10頁16~19行)とした認定に何ら誤りはないから、原告主張の審決取消事由は理由がなく、その他審決にはこれを取り消すべき瑕疵は見当たらない。
2 よって、原告の請求を棄却することとし、訴訟費用の負担及び上告のための付加期間の指定につき行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条、96条2項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 田中康久 裁判官 石原直樹 裁判官 清水節)
(別紙)
本願発明の要旨
化学反応のための免疫近接触媒を製造する方法において、
<1> 反応剤および上記反応のための触媒性基を同定し、
<2> 上記反応剤と上記触媒性基の遷移状態の錯体に相当するハプテンを選択し、
<3> 上記ハプテンによる抗体の産生のための免疫応答を刺激し、
<4> 上記ハプテンに特異的な上記免疫応答から精製された抗体を単離し、
<5> 上記反応剤と上記触媒性基の遷移状態の錯体に相当する変換ハプテンを選択し、
<6> 上記精製された抗体を上記変換ハプテンと反応させることにより、上記抗体に上記触媒性基を共有結合させて、上記精製された抗体を変成し、同時に上記触媒性基は上記変換ハプテンの一部として上記精製された抗体の結合部位に特異的に結合して上記化学反応に活性な抗体-触媒性基錯体を生じるようにし、かつ、Y基とQcat基との間の結合を破壊させることで、上記抗体に結合された上記触媒性基を解除し、しかも
<7> 上記化学反応に活性な、抗体-触媒性基錯体を、上記変成系から単離する工程を含み、
上記反応剤が式: R1-X-R2
で表され、上記反応剤と、上記の選択された触媒性基との錯体が式:
<省略>
で表され、上記反応剤と上記の選択された触媒性基との錯体の遷移状態に対する上記ハプテンが式:
<省略>
で表され、上記変換ハプテンが式:
<省略>
で表される(ただし、Xは反応中に変化する反応剤の一部分を表し、Kは触媒性基を表し、Yは、Xに関するハプテン分子および変換ハプテン分子の類似した部分を含む反応部位を表し、XおよびYは互いに類似しており、Yは遷移状態においてはXを表し、しかも、QおよびQ’はそれぞれ上記ハプテンおよび変換ハプテン内でYに結合する一つ以上の置換基を表し、Qcatは
K-L
であり、Lは、触媒性基と抗体分子の間に永久の結合を形成するのに使用される分子の残部であるリンカー基を表し、Q’catは
K’-L’
であり、K’はYと安定な結合を形成するKの非反応性の同族体を表し、L’はLに対して反応性のある抗体結合表面に基を導入するLの非反応性の同族体であり、R1、R2、および、R’1とR’2は、触媒作用に関与しない反応剤、ハプテンおよび変換ハプテンの残存化学基を表し、しかも、R1とR’1および、R2とR’2は、それぞれ実質上互いに類似しており、上記R’1とR’2は、それぞれR1及びR2と同様の寸法および電荷を有している)ことを特徴とする化学反応のための免疫近接触媒の製造法。
平成6年審判第13874号
審決
アメリカ合衆国、メリーランド州 20852、ロックビル、イースト ジェファーソン ストリート 1530
請求人 イゲン インコーポレイテッド
京都府京都市中京区御幸町通三条上る丸屋町330-1 新実特許事務所
代理人弁理士 村田紀子
昭和63年特許願第219587号「免疫近接触媒の製造方法」拒絶査定に対する審判事件(平成1年6月27日出願公開、特開平 1-163131)について、次のとおり審決する。
結論
本件審判の請求は、成り立たない.
理由
1. 手続の経緯等
本願は、昭和63年9月1日(優先権主張1987年9年2日、米国)の出願であって、平成6年9月14日付け手続補正書によって補正された明細書の記載からみて「免疫近接触媒の製造」に関するものであって、その特許請求の範囲第1項には次のとおり記載されている。
「化学反応のための免疫近接触媒を製造する方法において、
<1>反応剤および上記反応のための触媒性基を同定し、
<2>上記反応剤と上記触媒性基の遷移状態の錯体に相当するハプテンを選択し、
<3>上記ハプテンによる抗体の産生のための免疫応答を刺激し、
<4>上記ハプテンに特異的な上記免疫応答から精製された抗体を単離し、
<5>上記反応剤と上記触媒性基の遷移状態の錯体に相当する変換ハプテンを選択し、
<6>上記精製された抗体を上記変換ハプテンと反応させることにより、上記抗体に上記触媒性基を共有結合させて、上記精製された抗体を変成し、同時に上記触媒性基は上記変換ハプテンの一部として上記精製された抗体の結合部位に特異的に結合して上記化学反応に活性な抗体-触媒性基錯体を生じるようにし、かつ、Y基とQcat基との間の結合を破壊させることで、上記抗体に結合された上記触媒性基を解除し、しかも
<7>上記化学反応に活性な、抗体-触媒性基錯体を、上記変成系から単離する工程を含み、
上記反応剤が式:R1-X-R2
で表され、上記反応剤と、上記の選択された触媒性基との錯体が式:<省略>
で表され、上記反応剤と上記の選択された触媒性基との錯体の遷移状態に対する上記ハプテンが式:<省略>
で表され、上記変換ハプテンが式:
<省略>
で表される(ただし、Xは反応中に変化する反応剤の一部分を表し、Kは触媒性基を表し、Yは、Xに関するハプテン分子および変換ハプテン分子の類似した部分を含む反応部位を表し、XおよびYは互いに類似しており、Yは遷移状態においてはXを表し、しかも、QおよびQ’はそれぞれ上記ハプテンおよび変換ハプテン内でYに結合する一つ以上の置換基を表し、Qcatは
K-L
であり、Lは、触媒性基と抗体分子の間に永久の結合を形成するのに使用される分子の残部であるリンカー基を表し、Q’catは
K’-L’
であり、K’はYと安定な結合を形成するKの非反応性の同族体を表し、L’はLに対して反応性のある抗体結合表面に基を導入するLの非反応性の同族体であり、R1、R2、および、R’1と
R’2は、触媒作用に関与しない反応剤、ハプテンおよび変換ハプテンの残存化学基を表し、しかも、R1とR’1および、R2とR’2は、それぞれR1及びR2と同様の寸法および電荷を有している)
ことを特徴とする化学反応のための免疫近接触媒の製造法。」
2. 当審の拒絶理由
当審において、平成8年6月13日付けで通知した拒絶の理由は、以下のとおりである。
「本願は、明細書の記載が下記の点で不備のため、特許法第36条第3項に規定する要件を満たしていない。
記
発明の詳細な説明においては、本願発明の触媒の製造方法に関し、理論的には詳細に説明されているものの、これを現実的に実施した例については記載されていない。
ところで、本願発明の触媒の製造方法が現実的に工業的に利用可能であると言えるためには、例えば、以下の点につき、その確認を要するものと認められる。
a)反応剤の遷移状態に対応するハプテン(例えば、表7のA~Iに記載のハプテン)が現存するのか?または、その合成が現実的に可能なのか?
b)そのハプテンを用いて、いかなる動物に対して、いかなる条件で免疫応答を行わせれば、工業的に利用可能な量で、所望の抗体が得られるのか?
特に、天然に現存しないハプテンの場合には、所望の免疫応答自体が現実に発現するのか?
c)変換ハプテン(例えば、表7のA~Iに記載の変換ハプテン)の合成が現実的に可能か?そして、その変換ハプテンは、以後の操作に支障のない程度の安定性を有しているのか?
d)抗体と変換ハプテンとの安定な結合が、現実に生成するのか?
e)変換ハプテン中の“Y-K”結合が、副反応等を伴わずに現実に切断可能なのか?
f)得られた[抗体-触媒性基錯体]が、現実的に、工業的に利用可能な程度の触媒作用を有するのか?
しかるに、本願発明の詳細な説明においては、本願発明の方法についての実施例がないとともに、全明細書の記載からみて、上記諸点についてその確認がなされているものとも認められないし、またこれらの事項が当業者にとって自明のものとも認められない。
したがって、本願発明の詳細な説明の記載は、当業者が容易にその実施ができる程度に、本願発明について記載されているものとは認めることができない。」
3. 当審の判断
請求人は、上記拒絶理由に対して、平成9年1月9日付けで意見書を提出し、例えば、上記理由中のb)に関しては、
「本願発明の製法では、特殊な条件を必要とせず、一般的な条件下で免疫応答が行われるために、その手順しか記載してないが、当業者であれば、本願明細書(中略)の記載、即ち『免疫応答を刺激する抗原としてその錯体を適当な動物に注射することから成る。その応答が展開するのに充分な時間の後、動物から採血し、血清を抽出し、(好ましくは共有結合したハプテンを含むカラムで)分配して、標準法に従って担体単独に応答するこれらを含む非特異性の抗体を除去する。』との記載から、本願発明の方法における免疫応答を行うことは容易であり、このような免疫応答のための条件を適宜選択することも当業者であれば容易になし得ることである」と述べるなど、全体として「本願明細書の発明の詳細な説明の記載は、当業者が容易にその実施をするに充分」である旨主張する。
しかしながら、免疫応答に関して言えば、本願発明の詳細な説明における、上記意見書で引用されている部分においては、一般論が記載されているに過ぎず、明細書に例示されている第7表のA~Iの個々の反応系に対して、具体的に、それぞれ、どのような担体種を使用して、各ハプテンとその担体種との共有結合をどのようにして形成させるのか、そして、それぞれ、いかなる動物に対して、どの程度の量注射し、どの程度の免疫時間を要して免疫応答をさせるのか、また、所望の抗体を該抗体とともに産生してくる不要な抗体と識別しつつ分離するためにどのような手段をとればいいのか、等については全く明らかにされていないし、これらの事項が当業者にとって自明のことであったものとも、到底認められない。
さらに、本願発明の詳細な説明の他の箇所において、本願発明の免疫近接触媒が、本願明細書記載の上記の方法に基づいて、現実的に実施できたことを客観的に明らかにする記載もなされていない。
したがって、かかる本願発明の詳細な説明の記載に基づいて、本願発明の方法を実際に実施するにあたり、その具体的手段を見出そうとするならば、この分野における通常の能力を有する当業者に対して期待しうる程度を超える極めて困難な試行錯誤や極めて複雑高度な実験等が要求されることは明らかである。
さらに、前記平成9年1月9日付け意見書とともに提出された各文献を見ても、出願時点において、本願発明の製法を容易に実施することができたことを証明するに足る根拠を見い出せない。
したがって、本願発明の詳細な説明の記載は、当業者が容易にその実施ができる程度に、本願発明について記載されているものとは認めることができない。
4. むすび
以上のとおりであるから、本出願は特許法第36条第3項に規定する要件を満たしていない。
よって、結論のとおり審決する。
平成9年7月14日
審判長 特許庁審判官 (略)
特許庁審判官 (略)
特許庁審判官 (略)
請求人 被請求人 のため出訴期間として90日を附加する。